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葬儀辞典

三途の川とは?知るほど面白く役に立つ、仏教の教え

葬儀辞典

三途の川とは、死後に魂が渡るとされる、この世とあの世との境界と生川のことです。本記事では三途の川の意味や六文銭との関係、仏教的な背景まで丁寧に解説しています。死や仏教の世界観に関心のある方、葬儀や供養について知りたい方におすすめです。

三途の川とは、亡くなった人の魂があの世へ向かう途中に渡るとされる川です。仏教の教えに基づくこの川には、生前の行いを映し出すような意味が込められています。

とはいえ、「三途の川ってどこにあるの?」「六文銭って本当に入れるの?」と、言葉は知っていても詳しくはわからないという方も多いのではないでしょうか。

本記事では、三途の川の由来やその背景にある仏教的な意味、現代の葬儀との関わりまでを丁寧に解説しています。死や供養の意味について知りたい方、伝承や仏教の世界観に関心のある方は、ぜひ参考にしてください。

三途の川とは

三途の川とは、亡くなった人があの世へ向かう途中に渡るとされる川です。仏教の教えに基づく死後の世界のひとつで、魂は亡くなってから七日目にこの川のほとりにたどり着くといわれています。現世とあの世の境界に位置する場所であり、ここを渡ることによって人は次の世界へと進んでいくと考えられています。

この世とあの世を隔てる川という発想は、日本だけのものではありません。たとえば、ギリシャ神話には「ステュクス川」が登場します。ここも死者の魂が渡る川とされ、冥界の入口と考えられています。また、インド神話に出てくる「ヴァイトラニー川」は、罪深い者にとっては血や膿が流れる恐ろしい川として語られます。

このように、三途の川と似たような概念は世界中に存在しており、人は古くから「死後の川」に何かしらの意味を見いだしてきたことがわかります。

そもそも三途とは

仏教において「三途」とは、死後に魂が進むとされる3つの苦しみの道を指します。具体的には、地獄道・餓鬼道・畜生道の3つで、いずれも生前の行いによって人が堕ちるとされる世界です。「三途の川」という言葉には、この三つの道を象徴的に表す意味も込められています。

地獄道は、傷つけ殺し合う世界です。餓鬼道は貪欲の世界で、どれほど食べても渇きや飢えが癒えることはなく、飽くなき苦しみが続くといわれています。

畜生道は傍生(ぼうしょう)とも呼ばれ、人間を中心として他の動物たちを傍らに置き、さらに人間同士であっても能力や資質の違いによって相手を見下し、傍らに追いやっていく世界です。簡単にいえば、差別や上下の意識に満ちた世界を表しています。このような心のあり方そのものが、畜生道の苦しみにつながると考えられています。

このように、「三途」とは本来、川の名前ではなく苦しみの道を意味する仏教用語です。そこから転じて、死後に通る川を「三途の川」と呼ぶようになったと考えられています。つまり、川そのものが三つに分かれているわけではなく、川を渡った先に待つ世界が三つに分かれているという教えに基づく表現なのです。

三途の闇と現実世界

三途の川と似た言葉に、「三途の闇(さんずのやみ)」という表現があります。これは三途の世界で光が見えず、迷う様を表した言葉です。

三途の闇は本来、死後に悪人が行くべき世界とされていますが、死後の彼方、つまり私たちの生きる現実世界のことだという考え方もあります。

ここでは、先述した悪人が堕ちる3つの世界を、現実世界や普段の生活に当てはめて考えてみましょう。

地獄道の傷つけ殺し合う様は、現実世界における戦争を表していると考えられます。人間の欲は尽きることがなく、これは鬼畜道の「どんなに飲み食いしても満たされることはない」という在り様と同じです。

そして、現在の地球では人間が生態系のトップに君臨し、他の動物たちを傍らにしています。そして人間同士も、見た目や能力で互いを差別したり、上下に見たりしています。考え方によっては、この世はまさに鬼畜道です。

こうした考えを踏まえると、仏教が説く「自我(エゴ)を手放すこと」がいかに大切かが見えてきます。私たちは無意識のうちに、自分の考えや立場に執着し、他者との隔たりを生んでしまいます。

しかし、それこそが心を闇に閉ざす原因となり、苦しみの道に迷い込むことにつながります。そして、エゴを手放し、他者への慈悲の心を持つことで、平和で平等な世界をつくることが大切だと解釈できます。

このように、三途の闇は死後の世界だけでなく、生きている私たちの心の中にも存在するものとして受けとめることができるのです。

三途の川の渡り方

三途の川は、死後に魂が通るとされる川ですが、その渡り方は生前の行いによって異なると伝えられています。善人には善人の、罪を持つ者にはそれぞれにふさわしい方法で川を渡るとされ、そこには仏教的な因果の教えが反映されています。

善人は橋を渡る

生前に人を助け、誠実に生きた善人は、三途の川にかかる橋を渡ってあの世へと進むとされています。この橋は「金銀七宝の橋」とも呼ばれ、美しく光り輝く橋だといわれています。濁流に足を取られることもなく、苦しむことなく、まっすぐに向こう岸へと渡れるのです。

橋を渡るという行為は、仏教において「煩悩の川を超える」象徴でもあります。つまり、善人の生き方はすでにこの世で煩悩を克服し、心の準備が整っていると捉えられます。三途の川の渡り方は、その人の魂の状態を映す鏡のようなものなのかもしれません。

軽い罪人は浅瀬を渡る

一生を通して大きな悪事はなくとも、小さな嘘や怠惰など、日常の中で少しずつ罪を重ねてきた人は、橋ではなく川の浅瀬を歩いて渡ることになります。水の流れはゆるやかでも、足元はぬかるみ、渡るには苦労が伴います。

それでも流れはまだ緩やかで、命を落とすような危険はありません。浅瀬を歩くという体験を通じて、自らの罪を振り返り、心の奥にある後悔や迷いと向き合う時間が与えられると捉えられます。これはまさに、仏教が説く「懺悔と浄化」の過程を象徴するような旅といえるでしょう。

重い罪人は深瀬を渡る

人を傷つけたり、私利私欲のために大きな悪を重ねた者には、最も苦しい渡り方が待っています。深く激しい流れの中に身を投じ、溺れながら、もがきながら川を越えなければならないとされています。流れは速く、足元も不安定で、前に進むことさえままならない状態です。

さらにこの深瀬では、上流から大きな岩が流れてきて、それに押しつぶされて命を落とすこともあると伝えられています。しかし、そこで終わりにはなりません。重い罪人は何度も生き返り、同じ苦しみを繰り返しながら、それでもなお川を渡りきらなければならないのです。

こうした果てしない苦しみの中にこそ、生前の行いが残した影の深さが浮かび上がってくるのかもしれません。

三途の川と六文銭

三途の川を語るうえで欠かせないもののひとつに「六文銭」があります。これは死者があの世へ向かう旅のなかで必要とされるもので、古くから葬儀においても重要な意味を持ってきました。

ここでは、六文銭の由来や現代での扱い、そしてそれに関わる存在について見ていきます。

六文銭は三途の川の渡し賃

六文銭とは、三途の川を渡るために必要とされる渡し賃のことです。これを持っていれば、死者は川を歩いて渡るのではなく、船に乗って安全に向こう岸まで運んでもらえると考えられてきました。三途の川には渡し守がいるとされ、その者に六文銭を支払うことで船に乗せてもらえるという民間信仰が広まっています。

こうした考え方から、かつての日本では、死者の旅路が無事であるようにと願いを込めて、頭陀袋(ずだぶくろ)に六文銭を入れ、それを棺に納める風習が生まれました。この六文銭は、単なるお金というよりも、冥途への通行手形のような役割を果たしていたのです。

現代の葬儀における六文銭

現代の葬儀では、実際の硬貨を棺に入れることはできません。硬貨は金属製であるため火葬の際に燃え残ってしまいます。紙幣の場合は焼却そのものが法律により制限されており、貨幣損傷等取締法に抵触するおそれがあります。このような理由から、現金そのものを副葬品として使うことはできません。

とはいえ、六文銭の意味合いが失われたわけではありません。現在では、本物のお金の代わりに、木製や紙製の六文銭が用いられるようになりました。形式こそ変わりましたが、「あの世への旅が穏やかでありますように」という想いは、昔も今も変わらず息づいています。

奪衣婆と懸衣翁

三途の川には、奪衣婆(だつえば)と懸衣翁(けんえおう)という二人の鬼がいるとされています。奪衣婆は、川を渡ろうとする死者の衣服をはぎ取り、その衣を懸衣翁へと渡します。そして懸衣翁は、それを三途の川にかかる木にかけ、枝のしなり具合で生前の罪の重さを量るのです。これは、死者がどれほどの業を背負っていたのかを判断するための行為だといわれています。

ただし、六文銭を持っていれば、奪衣婆に着物をはぎ取られることなく、船に乗って三途の川を渡れると伝えられています。

つまり、六文銭は渡し賃であると同時に、あの世での苦しみを和らげる護符のような役割も果たしているのです。古くから人々が六文銭に託してきた想いの深さが、こうした伝承の中にも表れています。

三途の川と賽の河原

賽の河原(さいのかわら)とは、三途の川のほとりにあるとされる場所です。幼くして亡くなった子どもたちの魂が集まる場所といわれています。

親よりも先に亡くなった子どもたちは、この賽の河原にとどまり、そこで試練を受けると伝えられてきました。親に先立った罪を償うために、成仏することを許されないと信じられてきたのです。

賽の河原では、子どもたちが小石を積み上げて仏塔をつくろうとします。この行為は、親への供養の気持ちや、自らの功徳を積み罪を償うための行為ともいわれています。

しかし、石を積み上げても、鬼が現れてはそれを崩してしまう。そんな終わりのない繰り返しが続くのが賽の河原の世界です。ちなみに、鬼が仏塔を崩してしまう行為には、「こんな歪んだ塔では功徳にならない。もう一度積み直して成仏できるよう祈れ」という意味があります。

その苦しみを見かねて救いの手を差し伸べるのが、地蔵菩薩とされます。地蔵は、石を積む子どもたちをそっと抱き上げ、彼らをあの世へと導いてくれる存在として、今も多くの人々に信仰されています。

「三途」には仏教の教えが詰まっている

三途の川の「三途」とは、死後に人が進むとされる三つの苦しみの道、「地獄道」「餓鬼道」「畜生道」を表す言葉です。これらはすべて、生前の行いによって自らが招く結果とされ、仏教が説く因果応報の考え方が色濃く反映されています。

三途の教えに触れることは、私たちが現実の世界でどのように生きるべきかを考えるきっかけにもなります。日々の言葉やふるまいの積み重ねが、やがて自分自身の未来を形づくっていく。そんな仏教のまなざしが、三途という概念には込められているのです。

また、三途の川は葬儀の場面にもその影を落としています。棺の中に木製や紙製の六文銭を納める風習は、死者が無事にあの世へと渡れるようにという願いのあらわれです。

三途の川という言葉を通して、私たちは死を遠ざけるものではなく、静かに向き合うべきものとして見つめ直していくことができるのかもしれません。